不 識 庵 謙 信 と 上 杉 家
大人気戦国武将・上杉謙信は戦に明け暮れた人生の半ばで出家していますが…
出家後も相変わらず戦ばかり 御仏の教えを理解していたとは到底思えません

  長尾為景之塚
謙信の父・越後守護代・長尾為景はしばしば越中に出陣
富田景周(とだかげちか:1746-1828)の『越登賀三州志』によれば為景は天文十四年(1542)に越中・栴檀野で戦死したとされ、現在為景の墓とされる「為景之塚」が残されていますが…これはどうも為景の父親・能景の事蹟(芹谷の戦い:1506で戦死)との混同の産物のようです
どちらにせよ、越後から越中への進出は、長尾家累代の宿願だったようです

栴檀野局風景印 2000年6月6日廃印(意匠変更)

春日山城と栃尾城
謙信は享禄三年(1530)、越後・春日山城に生まれます この春日山城が終生、謙信の本拠地となりました

  
左:五智局風景印 1952年7月21日使用開始  中:直江津駅前局風景印 2000年4月6日廃印(意匠変更)
右:直江津局風景印 1983年11月30日廃印(意匠変更)


  
1969年のNHK大河ドラマ『天と地と》放映に当たって作成された春日山城址の上杉謙信像
左:春日山局風景印 1983年7月1日使用開始 右:エコー葉書 2004年8月1日発行


唯一の例外が、為景の家督を継いだ兄・晴景の命で古志郡司として三条城・栃尾城に入った時です
このことに因んで1967年、旧栃尾城の一角・秋葉公園に謙信の像が建立されました


    
栃尾局風景印 1977年5月1日使用開始
※初期印は径34mmとかなり小振り 現行印は径36mmで局名なんかも大きく

  毘沙門天としての目覚め
密教への傾倒を深めていった謙信は、天部四天王の一人、毘沙門天が大のお気に入りで、春日山城内にも毘沙門堂を作り、また出陣に際しては「毘」の字をあしらった軍旗を掲げて出陣したそうです
そのあたりで止めておけば良かったんでしょうが、ついには自らを毘沙門天の化身と考えるようになったとか…誰も止められなかったんでしょうか?
   
左:上杉神社所蔵の上杉謙信肖像画より 上越中屋敷局風景印 1992年12月14日使用開始
中および右:上杉神社所蔵・小圃千浦(おばた ちうら 1885-1975)の上杉謙信肖像画より
米沢局風景印 1979年7月23日使用開始,ふみの日・米沢局小型印 2006年9月23日


 
角川映画による《天と地と》製作時に自治体・上越市が広告主となったエコー葉書 1990年5月21日発行

不識庵の死
天正六年(1578)3月9日(旧暦)、遠征の準備の最中に突然斃れた謙信はそのまま帰らぬ人となりました 享年49歳

  
左:400年忌祭記念切手展・米沢局小型印 1977年4月29日  右:400年祭記念・米沢局小型印 1978年4月29日
※「モノは言いよう」の見本のような2年続けてのオマツリ


遺体は鎧を着けた状態で甕の中に安置され(ヒドイ!)、後に上杉家が米沢に移封された後もそのまま城内に
上杉家歴代当主が眠る御廟に移されたのは、明治維新後のことです

    
左および中:米沢御廟局風景印 〜1998年12月9日 → 1998年12月10〜
右:御廟安置100年記念切手展・米沢局小型印 1976年4月29日

  謙信後の上杉家
実子のなかった謙信は4人の養子を迎えました。 そのうち次期当主の座を争ったのは景勝と景虎の二人。 実家・北条氏を背景とする景虎を家中を二分する「御館の乱」で破った景勝は、側近の樋口兼続に直江家を継がせて執政とし、収束しつつある戦国時代を睥睨します
しかし謙信時代に得た加賀・能登・越中・北信濃・東上野などを次々に失い、やがて対立した徳川家康が関が原の戦いで覇権を確立すると米沢に減転封、それでもそれなりの大藩でしたが、最盛期に比べると寂寥の感を禁じ得ません
上杉景勝の兜(左)と直江兼続の兜(右)
  
左:米沢丸の内局風景印 1998年12月10日使用開始
右:米沢松が岬局風景印 1998年12月10日使用開始

  上杉家@米沢
米沢に根を下ろした上杉家は地元から上手く受け入れられたようで、今でも《上杉まつり》とか一生懸命やっています
今みたいになったのは明治以降っぽいですが…


上杉まつりみこし復活25周年記念米沢局小型印
1975年4月29日
※結局この75年から4年連続で謙信あやかり祭…ミゴト!

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