蒙 古 襲 来 11

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 〈草原の道〉と〈オアシスの道〉、ユーラシア内陸交通の2つの主要幹線を押さえたモンゴル帝国は〈海の道〉への進出を企てます
 〈海の道〉の東端にある日本には1274年と1281年の2度にわたってモンゴル帝国配下の東アジア混成軍が侵攻します
2020年度


モンゴル帝国の成立と拡大
 中国東北部に勃興した女真族の金は、西遷したカラ=キタイとの緩衝地帯としてモンゴル高原を政治的空白の状態におきます。その間隙に中から成長したのがモンゴル部族の族長テムジンでした。高原を統一しチンギス=カンを名乗ったテムジンは、ユーラシア内陸部の東西交通路の統合へとその帝国(ウルス)を拡大させます
ジンギス=カン生誕800年記念
1962年7月20日(モンゴル人民共和国)
ジンギス=カン戴冠800年記念
1990年5月10日(モンゴル人民共和国)
※旧ソ連の衛星国であったモンゴルは、民族の英雄であるジンギスカンの記念切手を発行しようとしますが・・・ソ連にとっては母なるロシアを征服した侵略者。 そんなとんでもない人物の記念切手なんて許せるはずもなく、思いっきり圧力をかけてお蔵入りに追い込みます。 それから四半世紀以上のときを経て、ソ連は崩壊しモンゴルも民主化を達成すると・・・どこにしまっておいたのか、この古い記念切手が大量に出回り、さらに1990年に"CHINGGIN KHAN CROWNATION 1189"と加刷して戴冠800年記念切手として再発行。 モンゴル・ウルス800年記念には、先の鬱憤を晴らすかのような、やたら大きい切手を組み込んだ5枚組みの小型シートまで発行されました

モンゴル帝国建国800年記念 2006年発行(モンゴル=ウルス)

 チンギス=カンの没後、末子ツルイの代行期を経て正式に帝国の後継者となったオゴデイは大ハーン(天可汗)を名乗り、ユーラシアの東西にその帝国を拡大します。チンギス=カンの長男ジョチの家(ウルス)を継いだバトゥに率いられた征西軍は、ロシア・ハンガリーを征服、さらにその一支隊がレグニツィァ(独:リーグニッツ)の地でポーランドとドイツ騎士団の連合軍を破ります
レグニッツァの戦い750年記念 1991年4月9日発行(ポーランド)




劉貫造《元世祖出猟図》(1280年)
1998年5月20日発行(中華民国・台湾)
クビライ=ハーンの即位
 オゴデイの子・グユクを経て、大ハーン位はオゴデイ家からツルイ家の長兄・モンケに継承されます。 モンケの次弟・クビライはチベットや大理国の征服事業により、西南シルクロードを開拓します
 ついでクビライはモンケ=ハーンの下で南宋攻略に出陣しますが、戦半ばでモンケ=ハーンは急逝。 カラコルムに残りツルイ家の家産を相続した末弟・アリクブケとの間の大ハーンを巡る骨肉の争いに勝利し、大ハーンの地位を固め、国号を〈大元〉大モンゴル=ウルスと定めます



マルコ・ポーロのジパング情報
 クビライ=ハーンに〈黄金の国・ジパング〉の情報を伝え、日本への侵攻を進めたのはマルコ・ポーロだという説があります
 そもそもマルコ・ポーロという個人がどこまで「実在」していたのか、歴史学的には難しいものがありますが、このモンゴル帝国時代に「世界」各国の情報についての知見がより拡大していったことは確かな事実です
生誕700年記念
1954年6月8日発行(イタリア)
《チャイナ'96》記念
1996年3月22日発行(イタリア,サン=マリノ共同発行)



日蓮の警告
 相次ぐ災害や政治不安の中、禅宗を排して法華経への帰依を説く日蓮は《立正安国論》を著し、鎌倉幕府に国難の到来を警告します

※2つの風景印に描かれているのは、1923年に建立された清澄寺の日蓮像。 ・・・多分

天津局風景印
1952年4月1日使用開始

鴨川局風景印
1972年9月1日使用開始


モンゴル帝国からの使者
 1268年、〈大蒙古国皇帝奉書〉を携えたモンゴル帝国の使節団が大宰府に到着します この奉書は鎌倉幕府を経て朝廷に送られます
 大宰府はこの頃の日本の外交窓口であり、またモンゴルの侵攻が始まると防衛の中心となります
太宰府局風景印 1959年9月1日〜1988年3月5日(意匠変更)



文永の役(1274)
 外交交渉の遅滞や朝鮮半島・高麗での反乱(三別抄の乱)、モンゴル帝国の対南宋攻略の展開の中で、ついにモンゴル軍の日本侵攻が始まります
 対馬、壱岐を蹂躙したモンゴル軍は肥前の沿岸各地を襲った後、博多湾に面した早良に上陸
 風景印に描かれた、現在では記念碑が建つ祖原などを戦場としながら敗走を続ける日本側は太宰府防衛の最終拠点となる天智朝の遺構〈水城〉までの撤退を余儀なくされます
早良局風景印
1989年10月16日使用開始
現在にまで残る水城の跡
絵入葉書《九州の史跡・福岡県》 1987年10月23日発行

水城での決戦を覚悟した日本側ですが、一夜明けたら・・・

あれ?モンゴル軍いない・・・




神頼み
 文永の役に先立って院政をはじめた亀山上皇は、最前線となった筑前の一宮・筥崎宮に、神様の迷惑も顧みず〈敵国降伏〉の勅額を奉納。 気休め位にはなったんでしょうか?
通常切手 左・1945年4月15日発行 右・同5月頃出現
※第2次世界大戦末期の封書料金の値上げに伴い、日中全面戦争以来封書料金(4銭→5銭→7銭)の「顔」だった軍神・東郷元帥をついに諦めて、新たにこの〈敵国降伏〉が封書料金(10銭)の「顔」となりましたが、間もなく〈敵国「 」降伏〉。 気休めにもならなかったようです
 それどころか、進駐軍の兵士はこの切手を〈降伏「記念」切手〉だと思っていたとか
博多局風景印 1931年12月10日使用開始

福岡筥松局風景印 1985年9月2日使用開始 箱崎郵便局風景印 1982年9月12日使用開始
※両局とも初期印と現行印では印のサイズや日付配置などがけっこう違います



戦没者の供養
 執権・北条時宗は、文永の役での戦没者の供養のために1282年、円覚寺を創建し、無学祖元を住職に招きました
 後の弘安の役の戦没者も、敵味方の区別なく弔われています
通常切手 1962年6月15日発行
大船局風景印
左:1962年6月15日〜1972年8月31日
右:1972年9月1日使用開始

ふみカード
関東版



龍ノ口刑場
 1275年、礼部侍郎の杜世忠を正使とするモンゴル帝国の使節団が日本に派遣され、長門・宝津に到着しますが、彼らは鎌倉に連行され、龍ノ口の刑場で斬首に処されます

 日蓮もヒドイメに会った龍ノ口刑場はその後、竜口寺として、片瀬局の風景印にも描かれる名刹となりました
片瀬局風景印 1955年4月11日使用開始

 


弘安の役(1281)
 南宋を滅ぼしたモンゴルは、再度、日本に侵攻します
 壱岐では、先の文永の役で初陣を飾った19歳の若武者・少弐資時
(しょうにすけとき)が戦死するなどの激しい戦いが繰り広げられ、ついにモンゴル軍を撃退
少弐資時像 壱岐瀬戸局風景印 2003年10月1日使用開始
※1997年に〈元寇720年〉を記念して、壱岐出身の小金丸幾久によって製作されたもの

その後、長大な石築地に阻まれて博多湾への上陸にも失敗したモンゴル軍は台風で大きな被害を受けます

弘安の役を描く《蒙古襲来絵詞》の一部 福岡局風景印(戦前)
 
生の松原に復元された石築地の防塁   左:絵入葉書《九州の史跡・福岡県》 1987年10月23日発行
 右:福岡西局風景印 1989年10月16日使用開始

鷹島に駐屯していた10万を号する部隊も、少弐資時の叔父・景資ら御家人たちの活躍により壊滅させられます
 
鷹島町・モンゴル村 ふるさと葉書九州版 1998年9月1日発行 ※喜んでるのか???



各国のモンゴル帝国への抵抗
 ベトナム北部に位置する陳朝大越国も、日本と同じ時期にモンゴル帝国からの侵攻を受けます

 1258年、1283年に続いて1287年に3度目の侵攻を受けた陳朝は、都・昇龍
(タンロン)を占領されながらも陳興道(チャン・フン・ダオ:陳国峻)の指揮の下で抵抗を続け、1288年、白藤江の戦いで決定的な勝利を得ます
陳興道 1958年9月23日発行(北ヴィェットナーム)



〈蒙古襲来〉から〈元寇〉へ
 〈蒙古襲来〉などと呼ばれてきたモンゴル軍の侵攻を〈元寇〉と呼ぶのは、徳川光圀によって編纂が始まった《大日本史》での表記に始まります
徳川光圀の肖像画
狩野常信画(1701)
水戸徳川博物館蔵
立原杏所画
茨城県立歴史館蔵
地方自治法施行60周年(茨城)
2009年11月4日発行
水戸東原局風景印
2002年10月15日使用開始

水戸市・千波公園内の徳川光圀公像(1983年建立)

水戸大工町局風景印
1985年8月1日使用開

水戸米沢局風景印
1997年10月20日使用開始

水戸の梅まつり・水戸局小型印
1988年2月27日

黄門まつりにちなむ水戸局小型印に描かれた黄門さま


すどうようこ画
《黄門様もサッカー!》

2001年用絵入年賀葉書
2000年11月1日発行

 複合民族国家として〈大元〉を国号とした〈モンゴル〉を、中国歴代王朝の一つに矮小化させる〈元〉という名称で呼ぶことで、日本が中国から侵略されそうになった・・・とイメージさせるるこの呼び名、日本の近代ナショナリズムの形成に応じて徐々に普及し、特に明治期・対外戦争危機の高まりの中で各地への記念碑建立や軍歌などにより「国民」に定着してゆきます



日蓮像の建立
 1888年、湯池丈雄の「元寇記念碑建設運動」に影響を受け、日蓮宗の僧侶・佐野前励らにより日蓮の立像建立が企図されます。 岡倉天心らによる10mにも及ぶ立像が完成したのは、日露戦争が始まった1904年のこと
 日本海海戦でロシア艦隊を打ち破った東郷平八郎・連合艦隊司令長官は、ポーツマス会議が始まった直後の1905年8月19日、戦勝御礼のために日蓮像を参拝したそうですが…
 日露戦争も神仏の加護で勝ったということなんでしょうか?
博多局風景印 1950年11月10日使用開始



元寇記念之碑
 第1次世界大戦下、対華21箇条要求が受諾された1915年5月に、地元の青年会が中心となって阿翁免の猿田彦神社に《元寇記念之碑》の建立が始まりました
 1976年、現在の宮地嶽史跡公園に移設
鷹島局風景印 1955年3月15日使用開始
※鷹島郵便局の風景印は初期印は直径37.5mm、現行印は35mmとサイズが変わっているうえに、日付の配置などに微妙な変化が見られます



燕沢・蒙古碑の保護
 弘安の役後に無学祖元によってモンゴル軍戦没者供養のために立てられたとされる《蒙古碑》は江戸時代に再発見されるも結局ほったらかしに。
 そんな碑に目をつけたのが中国大陸侵略真っ只中の日本政府。 内蒙古に作られた日本の傀儡政権・蒙古聨合自治政府主席・徳王の来日にあわせて、モンゴルと日本の協和を表すものとして善応寺境内に移され、東亜新秩序の宣伝に・・・
仙台燕沢局風景印 1990年2月2日使用開始


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